(プロの)の将棋とチェスの棋譜の違いについて思っていることを書いてみたい。FIDE のFIDE Laws of Chess を引用するのが本当だろうが、JCA規約を見たところ、棋譜の記録に該当する部分はほとんど忠実な FIDE Laws の翻訳のようなので、JCA 規約からそれに関する部分を引用することにする。
8章、棋譜の記録の8.1、12章:対戦者の品行の12.2に以下のような条文がある。
8.1
ゲームの進行中各対戦者は規定された記録用紙に自分と相手の着手の記録を1手1手、座標式表記法を使ってはっきりと明瞭に書き残さなければならない。( 次の自分の着手の前にそれ以前の自分の着手の記録をする。 )引き分けの申し出または申し込みがあった場合は対戦者の双方が申し出申し込みの着手の後に( D )または( = )の記号を持って記録用紙に記録しなければならない。
12.2
ゲーム中、対戦者がメモを使うこと、情報を得ること、アドバイスを受けること、他の盤を用いて分析することは禁止事項である。記録用紙には棋譜記録と消費時間の記録、引き分けその他の申し出、申し込みの記録以の事項を記録することはできない。
つまり、チェスの場合は、対局者が自ら対局中に棋譜を取ることになっている。グランドマスタークラスの対局でもそうである、というのが8.1。その際、指し手について記録するのは義務だが、消費時間については記録してもよいし、しなくても差し支えない、というのが12.2である。チェスの国際大会に何度も出ている知人に聞くと、彼自身は消費時間を記録したことは無いという。また、消費時間の記録をしている人はほとんどいないのではとのことだった。
プロの将棋の場合は、棋譜を取るのも、消費時間を記録し、残り時間を管理するのも記録係の仕事である。そのため、棋譜用紙には、指し手だけでなく、一手ごとの消費時間が必ず記録されることになる。
従って、チェスの棋譜は、多くの場合、指し手の記録であるが、プロの将棋の棋譜は、指し手プラス一手毎の消費時間の記録である。よく、OO手までXXの対局と同じ、という表現が解説の場で使われるが、たとえ、局面は同じでも、それまでに費やされた考慮時間まで一分一秒の単位で同じ棋譜というのは、理論上は存在しうるが、現実上存在するとは思えない(尤も現状の棋譜の記録では1分未満の秒単位の消費時間は消費時間無しで一緒くたに扱われてしまうが)。そういうとろに違いを見出すのが、将棋の棋譜鑑賞の面白さのひとつではないかと思う。
棋譜の利用方法について、読売新聞に載った鈴木大介八段の第19期竜王戦2組2回戦、対高橋道雄九段の自戦記第3譜に以下の記述がある。
ここで一息入れて記録係の藤森二段に今までの指し手が書き込まれた棋譜を見せてもらう。読者の中には自分の指している最中の棋譜など見て意味があるのか?と思われる方もいるかもしれないが、これが以外に役立つ「宝の山」なのだ。
例えば消費時間。これが多いところの手は、互いに困ったり、迷ったりした証拠だ。相手がどんな手を中心に読んだか、何を嫌がっているのか推理することができる。ほかにも一局全体の手の流れを見て今後の方針を立てたり、用途は色々とある。大体の棋士は、そういったことを棋譜から見ており(以下略)
消費時間が必ず棋譜用紙に記録されることは、棋士にとって重要なことだということがここから読み取れる。また、仮に、消費時間が記録されていない状態を想像してみて欲しい。観戦記は非常に味気ないものになってしまうのでは無いだろうか。例えば、プロ同士の対局ではないが、昨年行われた久保八段対瀬川さん(当時)のプロ編入試験対局、瀬川さんの優勢な局面からの転落をそれ無しでファンに魅力ある文章で伝えられただろうか。無理であったと思う。ならば、消費時間が一手毎に必ず記録されることは、対局者のみならず、将棋の魅力に触れたい多くのファンにとっても大事なことといえるのではと考える。また、それによって、チェスの観戦記や解説ではできないことが将棋の場合は可能になっている面が多々あることも指摘したい。
昨今、日本将棋連盟も財政難の折、記録係のあり方が話題になっているような話も伝え聞く。その際、単にコスト面だけではなく、上述したように、棋譜に指し手だけでなく消費時間が必ず記録されることには、チェスの棋譜には見られない文化的価値があることに考慮が行き届くよう願ってやまない。
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