梅田望夫氏の手になる「シリコンバレーから将棋を観る」についてレビューを書こうかと思ったが、あまりに同書で扱われていることが多岐にわたっているので、とても書ききれない気がしてきた。そこで、とりとめのない感想などを思うままに書き連ねておきたい。
当ブログ的には、「将棋世界」の読者と重なりつつもかなり違う層の読者もいそうな本書で、「永世竜王への祝辞、将棋グローバル化元年」という小見出しが使われ、「日本語が全然わからない人も含め、将棋の魅力ゆえに全世界からアクセスが集まりました。インターネットは本質的にグローバルな性格を持っていますが、ここに将棋のソフトパワーが加わっていけばいい」という梅田氏のメッセージが載ったことが一番心強い。
この本で梅田氏が狙った最大のものは、羽生名人、渡辺竜王、深浦王位、佐藤棋聖(当時)という当代の最高峰の棋士の個性をそれぞれ際立たせて読者に伝えることであったと思う。これは、氏が範としている金子九段について第三章で
なるほど将棋というのはこういうことを考えるゲームなのか、ということが素人にも本当によくわかる。そしてそこを明確に描くことによって、棋士の個性を浮き彫りにしていく。升田と大山は何が違うか。では大山と中原は、では中原と米長はという具合に。棋士の個性とは一局の将棋に現れるものが、棋譜こそが棋士の自己表現なのだ、という信念に基づいて、金子はそれを緻密に描こうとした
とあるところから明確であると考える。
但し、梅田氏の自己認識として、金子九段と自己との棋力に大きな差があることは歴然である。プロと同等の棋力を持たない氏が棋士の個性を浮き彫りにするために採用したのが、徹底的な資料の読み込みと必要になるかもしれない部分の筆写による事前の準備を行うことと、それぞれの棋士からの本音を聞きだし、必要があればリアルタイム観戦記を書いている現場から電子メールでコメントを取り付けることができるほどの人間対人間の関係を構築しておく、ということであった。
その結果として、「渡辺くんがいろいろ好きなことを言ってましたか」「竜王戦で佐藤さんに負けたとき、それでシリーズが決着したわけでもないのに、目の前で、勝った佐藤さんが泣いていて、本当に驚いた」「みんな、羽生さんとやるときは、負けると思ってやってるんですかね?それじゃだめですよね」などの生々しい肉声をかなりの量で聞き出し、また、竜王戦第1局の後手6四角の局面など、いくつかの具体的な局面を選んで彼らにインタビューを試み、それをほぼそのままの形で文字にすることによって、トップ棋士たちの個性の違いを描写することに成功しているように見える。当代のトップ棋士のほとんどと交友がある著名人というのは、将棋の歴史の中でもなかなか居なかった存在であると思う。まあ、時代背景やプロ将棋の社会に置かれている位置が昔と今では同じではないというのもあるのかもしれないが。
本書で明らかになったことのひとつに、羽生名人が、ブログを(少なくとも梅田氏のブログを)読んでいるということがある。その羽生名人を、氏は一章で「将棋の世界で最高のビジョナリー」と位置づけている。
その「将棋の世界で最高のビジョナリー」が語った言葉を少し拾ってみる。以下のような言葉が筆者の目に付いた。
現代将棋にも、間違いなく金子先生が必要です
私自身、梅田さんが始められたネットでのリアルタイム観戦記という試みには、すごく興味をもっています。これから先、たとえば今から五年後に、あの観戦記がどんな位置づけになっているのか。今後、将棋の世界が、どんなふうに外部の人に向けて伝わっていくのか。今までは将棋を世に伝えるための道は、決まっていましたからね。今回のことでまた、新しい道ができつつあるのかな、と。
野球などで、どんなに両チームの実力が均衡していたとしても、一試合一試合がそんなにギリギリのところで接戦になるわけではないですよね。なぜか将棋は、そうなる確率が異常に高い。
最近「この手は過去に何局指されている」とかいったことは中継コメントでも書かれますが、もし、もう一歩、踏み込んだところまでできたら、物語がふくらむと思います。その一局にどんな歴史的意味があったのかを知ると、その将棋がまた違う目で見られる、というのもありますよね
「シリコンバレーから将棋を観る」の将棋界にとっての最大の功績は、これから将棋がどう伝えられていくべきかについて「将棋の世界の最高のビジョナリー」から明確な方向を引き出したことにあると筆者は思う。あと、
羽生善治という人物は、若き日から自分が「将棋界の顔」であることを意識して、柔和で朗らかな明るいキャラクターを演じている
という氏の人物評が個人的には新鮮に思えた。
筆者の興味が将棋の普及にもあるのでこういう読み方になったが、本書は純粋な一将棋ファンとしても掛け値なしにたいへんに面白い読み物であった。すらっと読めてしまうが、再読、再々読に値する。読後の副産物として、期せずして山際淳司氏の「江夏の21球」を読み直すことを決めることになったのを付しておきたい。
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