英語で将棋関連の情報が流れるメーリングリストのshogi-lに、インターネットが大衆化するはるか以前のヨーロッパで将棋の普及に尽力されたGeorge Hodges氏の訃報が流れた。3日に亡くなられたとのことだ。
筆者は氏には会ったことは無い。ただ、よく英語の将棋関連のネット上のやりとりでは氏の名前が言及されるのはかなり目にしたことがある。また、日本将棋連盟の外国語の将棋紹介のパンフレットに、厚紙製の将棋駒があるが、その駒は漢字と西洋式の両方でできており、その西洋式のものが、Hodges氏のデザインによるものであったと思う。『ハチワンダイバー』15巻の63ページでそよが「なに…この駒?」と驚きながら発見するのが確か同じ駒である。Hodges氏は、個人でその駒を通信販売で世界中の将棋ファンに求められて頒布していた。
日本語でもHodges氏と直接交流のあった方の文章がいくつかネット上に存在するのでリンクし引用したい。2つめは青野九段によるものである。
思い起せば30年前、1976年のことです。子供のころから将棋の大好きな私は、会社からドイツ駐在を命ぜられて赴任するとき、彼の地で外国人と将棋が 指せたら、さぞ面白いだろうなと思い、千駄ヶ谷の将棋会館に情報を求めに行きました。すると、そのころ新宿道場によく来る「グリンドン・タウンヒルさんに 聞いてみろ」と言われ、お会いしてみると「ロンドンのジョージ・ホッジスさんの所へ行け」という御指示でした。そして、赴任後の夏休み、当時ロンドン将棋 トーナメントを主催していたこの将棋活動家と会うことが 出来ました。これが私の外国人との将棋の関わり事始めです。
彼は当時「SHOGI」という英文の季刊雑誌を発行していて、将棋のヨーロッ パでの普及にこれ努めていました。私も何か記事を書けと言われて珍しい角頭歩戦法 などを紹介することになりました。彼の家には家族で遊びに行ったりして、よく駒落 ちで将棋を指しましたが、強烈な個性の持ち主で 、雑誌(将棋ペン倶楽部)に紹介したこともあります。彼の紹介でヨーロッパに散在する多くの外国人の棋友を知り、ドイツのブルグドルフに住んでいたマックス・ピエツォンカ博士は近くでもあったので、家族で冬休みにお邪魔し将棋を楽しみました。将棋を通じれば知らない人ともすぐ仲良くなれます。
正確な年齢はわからないが、上記の鈴木氏によれば、享年80歳近くか、80を越えていた方のようだ。つつしんでご冥福をお祈りする。私が最初に将棋の普及で海外に行ったのは、昭和五十五年、二十代で日本将棋連盟理事をやっていた時だった。その前年、イギリスのロンドンで将棋大会が開催されることを聞き、では翌年はぜひプロが支援しようということで、淡路六段を誘って渡欧したのだった。
仲介兼同行者は、当時少し前までロンドンに留学していた、宇井秀雄氏(現・編集プロダクション社長)。現地の将棋サークルでファンと知り合い、送別会の時の「いつか必ずプロを連れてくるから」の約束を果たしたのである。
ロンドンに行くと、そこにジョージ・ホッジスという、将棋ファンをはるかに超えた人がいるのに驚いた。彼は英語で入門書を作成したり、隔月に雑誌を発行 するだけでなく、古将棋を研究して並べ方と動かし方を表したものを本にし、さらにその盤と駒まで自分で作成していたのだ。駒数が三百五十二枚の『無上泰将 棋』の盤駒を、ロンドンで見るとは思わなかった。
彼は、その十数年前にイギリスBBC勤務のレゲットさんの書いた英文の本を読み、急速に将棋に惹かれていったという(この本は東公平氏に戴き、現在私の 手元にある)。そしてオランダやパリにまで出向き、将棋の普及をしていた。今日、ヨーロッパで将棋が指されているのも、彼と翻訳者のジョン・フェアべアン 氏の功績なしではまず考えられない、といっても過言ではない。我々の訪問は、大成功だったと思う。ロンドンとパリを訪問し、指導対局はデパートでのデモンストレーションをした結果、現地での普及にはずみがついただ けでなく、翌年から国際交流基金の正式な派遣が認められるようになったからである。その昭和五十六年に、交流基金の派遣第一号として、私が渡欧した。ロン ドン、エジンバラ(スコットランド)、アムステルダム、ユトレヒト(共にオランダ)の四都市を回ったが、ホッジス氏が「あなたは三カ国(スコットランドは 他国の意味)を訪問した」と主張したのが、妙におかしかった。
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